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| (写真上:コカムバターとコカムの木) ◆アーユルヴェーダ ◆おもしろインド ◆マクロビオティック ◆セイタン ◆更新情報 ◆リンク集 |
26−恋人ひとりの男が、愛する人の家に行って、その扉を叩いた。 「そこにいるのは、だれ?」 と、なかから声がたずねた。 「私――!」 と彼がこたえた。すると、声が言った。 「ここには、私とあなたのスペースはありません」 そして、扉は閉ざされた。 男は人里はなれた山奥に隠れ、孤独と沈黙のなかで一年過ごした。 そして、そのあとふたたび、愛する人の家に戻ってきた。 彼は扉を叩いた。 なかから声がたずねた。 「そこにいるのは、だれ?」 「あなた――!」 と男が言った。 すると、扉は彼のために開かれた。 これはスーフィーの師、ジェラルディン・ルミの詩だ。 彼は十三世紀に生きた人で、現在世界でもっとも広く読まれ、親しまれているスーフィー詩人であり、旋回瞑想を三十八時間つづけてエンライトしたといわれる師でもある。 彼が歌うのは、つねに愛と瞑想の洞察である。 彼は、人間はあらゆる形態を通り過ぎて「いま・ここ」にやってきたと言う。 そして、真理はあらゆる法悦や境地のあとにやってくるものだとも言う。 真理とは、一言でいえば、愛である。 したがって、この道は「愛の道」とも呼ばれる。 しかし、愛には二種類の愛がある。 通常、私たちが愛というとき、そこにはふたりの人物がいる。「私」と「あなた」がいる。そして、私とあなたがいるとき、その背後にはつねに世界が待っている。誘惑と混乱が待っている。 この二元性のなかでの愛には、かならず欲がついてまわる。 スペイン語で「あなたを愛している」というとき、彼らは「テ・キエロ」と言う。これは直訳すると「あなたが欲しい」である。この言葉はストレートでわかりやすい。 基本的にだれかが「愛している」と言うとき、その人はなにかが欲しいということを暗示している。 それは「金」であったり、「安全」や「保障」であったり、「力の証明」であったり、「セックス」であったり、「やさしさ」や「あたたかさ」であったりする。 しかし、それらがなんであろうと、あなたは愛するという行為のなかで、自分のなかに欠如してているなにかを、相手によって満たしてもらおうとしているにすぎない。 ふたりがお互いに「欲しい」と言っているのだ。 そのとき、「私」は「あなた」の欲しいなにかを与え、その見返りとして「あなた」は「私」の欲しいなにかを供給する。この需要と供給のバランスがうまくいっているときには、ふたりの関係は良好だが、いったんこのバランスがくずれると紛糾がもちあがる。 これは本来、「愛」と呼ばれるようなものではなく、「取り引き(ビジネス)」と呼ばれるべきなにかだ。 しかし、この過程のなかで、あなたは不毛の愛、本来の愛ではないものとはなにかということを学んでいく。 ほんとうの愛のなかでは、「私」と「あなた」という分離がなくならなければならない。肉体もマインドも消えていかなければならない。 「ライラとマジュヌ」という恋物語りがある。これはインド版の「ロミオとジュリエット物語り」であり、インド人でこのふたりの名前を知らない人はいないくらい有名な話だ。 ライラとマジュヌは深く愛しあっていたが、宗教的な理由で社会はこの愛を認めなかった。ライラはヒンズー教、マジュヌはイスラム教に属していたからだ。ライラは結局親によって決められた男と結婚することになり、ふるさとから離れていく。ライラの乗っているかごを、遠くの木陰からマジュヌが見守る。そして、彼はそのまま木のかたわらに立ちつくして、いつまでも、いつまでも、ライラを待ちつづけた。そして、彼はいつしか存在とひとつになって、空のなかに消えていったという。この物語りはインドでは映画にもなり、いまでもさまざまな愛の話のなかで引用される代表的な恋物語りである。 あるとき、私は朝のサットサンでプンジャジと対話していた。 そこには百人くらいの人たちがいて、彼の話に耳を傾けていた。プンジャジはいつものように「クックックック!」と笑いながら、ラマナ・マハリシのアシュラムにいたときに得た体験のことや、師との交流のこと、またあるとき禅僧と名乗る日本人が突然サットサンにきて、「一言!」と聞くので「静かに!」と言ったら、大笑いして一分で帰っていったとか、自分でもおかしそうに話していたが、突然「おまえはライラとマジュヌの物語りを知っているか?」と私にたずねてきた。 もちろん、私はそれまでに何回も読んだり、聞いたりしていたので、「はい、知ってます」と答えたのだが、プンジャジはなぜか私の言葉にはおかまいなしに物語りを話しはじめたのだ。しかし、それは私が知っていた話とはかなり異なっていた。それはこんな話だった。 ライラとマジュヌは愛し合っていたが、ふたりは社会によって引き裂かれてしまった。マジュヌは狂ったようにライラを捜しもとめたが見つけることができず、とうとう病気になり、医者にも見放されてしまった。マジュヌは死の床についていた。友人たちが彼の最後をみとどけるために、彼の家に集まっていた。そのとき、だれかが家の扉を叩いた。友人のひとりが扉を開けると、そこにはライラが立っていた。「ライラが来た!」と、驚いた友人がマジュヌにむかって叫んだ。すると、マジュヌが言った。 「ライラだって?!、ライラはここにいるよ。私がライラだ!」 彼 のなかではもはや境界線が消えさり、二人はひとつになっていたのだ。 この話をプンジャジから聞いたときには、正直に言って、私にはよく理解できず、奇妙な物語りだと思ったものだ。オリジナルのほうが、よりロマンチックで詩的である。 プンジャジ版「ライラとマジュヌ」物語りは、ながいあいだ私にとっての「公案」だった。 しかし、真理が扉を開けるときには、マジュヌは「私がライラだ」と言う。 「私」はいなくなり、「あなた」だけになる。 このルミの詩は、実に端的にストレートに真理への入り方をさししめしている。 ルミにとって恋人とはもはや男でも女でもなく、二元性の世界を超えている。 ここで言う<恋人>とは、<神>とも呼ばれ、<絶対知>とも呼ばれる。 そして感性豊かな詩人たちは、ここへいたる道を「愛の道」だと言う。 これは、「あなた」と「だれか」の話ではない。 これは、「あなた」と「あなた」の話なのだ。 そのとき、あなたは、恋人を外側のだれかにもとめる次元を卒業している。 そのとき、あなたは、恋人をあなたの内側に見出している。 「恋人の家の扉」とはどこにあるのだろうか? ――それはあなたのハートだ。 しかし、「私」がなにかを要求し、欲しがっているうちは、扉はけっして開かれない。そこには「私」と「あなた」のスペースはない。 「私」が消えて「あなた」だけになったとき、ハートの扉が開く。 そして、そこにあなたは愛をみる。 だが、それはあなたが想像するような愛ではない。それはあなたの想像をはるかに超えている。 一度その愛に浴すれば、実際問題、存在はこの愛によって構成されていることがわかる。 「私」が消えたとき、宇宙はこの愛によって満たされていることがわかる。 あなたは愛そのものである。 |
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